組写真 わたしの体験


<かねた一郎によるコメント>

 この文章は、1969年の「キネマ旬報 蒸気機関車増刊 鉄道写真撮影読本」に掲載されたものである。現物は古本をさがすしかないが、なかなか入手しにくく、おそらく若い世代では読んだことのある人はきわめて少数だと思われる。著者の細井扇朗(ほそい・せんろ)とは「けむりプロ」メンバーの青山東男のペンネームで、「けむりプロ」の作品の大半の編集・レイアウトを担当していた経緯から、鉄道写真を紙媒体に作品として発表するうえで、なぜ組写真という手法が有効であるかを主張したものである。組写真の可能性と、その技法について「けむりプロ」メンバーが公表した文章は他になく、彼らの作品の成り立ちを理解する上で非常に重要であるのみならず、その後の鉄道趣味界で組写真についてまとまった論考が発表されたり議論されたこともないという状況に鑑みて、WEB上で誰にでも読めるように公開することにした。
 文章は執筆者本人の了解の下に、最低限の加筆・修正(表記の統一や読点の追加・削除など)を行なった。また、文中で言及されている写真について、内容を理解する上で必要と考えるものを添えた。セピアに調色してあるものは、青山東男本人の撮影した画像であるが、それ以外は参考資料として(著作権の侵害にあたらないよう配慮して)紹介するにとどめた。



それは撮らずにはいられない


 鉄道趣味という世界は実に幅広く奥深い。昔から汽車の好きだった人は多いに違いないが、今日では写真機の普及、鉄道模型の多様化、専門誌の充実などが相互に作用して、汽車の好きな人が、実際に行動を起こす時代になった。鉄道趣味は、正直なところ、経済面でも精神面でもゆとりがないと楽しめないものであり、鉄道趣味の発展している国は(知的な面においても)先進国であるといっても過言ではなかろう。
表紙  この数年、蒸機が激減するのに反比例して、鉄道写真をとる人間は激増している。なぜ鉄道写真を撮るかと私が自分自身に問うてみると、撮らずにはいられないからだ、という結論が出てくるが、鉄道写真を撮るということが、鉄道ファンの行動目的として次第に比重が重くなっていることも間違いない事実である。その点で「鉄道ファンを自称する人々から、カメラを取り上げて、それでもなお鉄道に対する研究心がある人々こそ、鉄道趣味の正統派である」と言いたげな昨今の正統派気質は、アナクロニズムであるかも知れない。十人十色の鉄道ファンが自分なりのセンスで写真を撮れば、作品やセンスが相違するのがあたり前で、あれがよい、これはまずい、と言えるものではないのであるが、一般に鉄道ファンは、汽車が好きなばかりに写真を撮るようになったので、写真技術が未熟であることが多く、そのために写真の仕上がりがよければよい写真であるような、きわめて次元の低い感覚が醸成されていた。しかし、今日では写真技術が向上して皆、すばらしい写真を創るようになった。これからは、十人が十色の作品を生みださねばならぬ主張の必要な時代に入ったのである。それは、鉄道に対する自分の主張、ないしは鉄道の自分の心に対する投影の主張である。
 以下、私が鉄道を好きになったことから始まって、今日、鉄道写真をどのように考えているかを述べてみたい。


鉄道写真を撮るに至るまで


 私は小学校三年まで、常磐線沿線の内郷町に住んでいた。炭鉱町ならどこでも同じような炭住街と、専用側線があったが、私が初めて「鉄道はいいな」と思ったのは、この頃のそれらの情景からであった。特に炭坑と内郷駅近くの機械工場を結ぶナローの専用線には格別の興味を示した。夏休みは、近くのひどく汚い川へ鮒をとりに行くことが日課であった。真っ白に燃えるような道を行くと、このレールの踏切があるのだがそこへ来ると悪童どもは、いっせいにゴムの短ぐつを脱ぎすてて裸足になりナローの道床に駆け込むのである。道床は緑の柔らかな草が一面に密生していて、素足にはまったく心地よいカーペットなのである。間もなくわれわれだけの漁場である、汚い川に着くのだが、その頃、木立のカーブを抜けてチンチン電車(当時町の人たちがそう呼んでいた)がやって来る。赤いエンドビームに大きなバッファーが誇らしげに着いており、ベルを鳴らしていくさまは、あたかも草むらをダックスフンドが歩くようなユーモラスな風情であったが、私はその時、この二本のレールを走る電車に生物的なものを感じたのであった。
内郷の電車 画像捜索中  余談だが、この専用線は常磐炭砿の通勤、資材輸送用の2フィート6インチの電気鉄道で、内郷駅付近の製作所から磐城坑までの二~三kmを走っていた。機関車は日立製作所製の草軽タイプで、連結器はバッファーアンドスクリューだった。廃線時期は昭和33年以降であるが、詳細不明。磐城坑付近は国鉄専用線との並走区間があり、ハチロクの運炭列車と競争する場面が日に何度かあったが、悪童どもは鮒をとることも忘れてチビ電車に声援を送ったものである。

 東京に住むようになってから、初めて見る精巧なHOの模型に完全にとりつかれてしまった。レイアウト面で数段優れていた外国誌――M・Rやクラフツマン(*注1)の影響からか、米国型のごついロコにとりわけ惚れていた。もちろん、当時「鉄道模型趣味」誌のコンクールで優勝した角倉氏のイプシロン鉄道の車両(*注2)について、彼のその根底にあるポリシー(主張なのであるが)が理解できなかったから、なぜあれが優勝したのか判らなかった。
注1 ModelRailroader 誌と Railroad Model Craftsman 誌のこと。  注2 角倉彬夫氏が鉄道模型趣味88号に発表したOn30の車両群のこと。デフォルメされたユニークな車両たちの製作記事は、後に「変わった車両30題」に収録された

横浜の6760  高校生になると、知識欲が湧いてくる。模型も楽しいには違いないが「鉄道ピクトリアル」誌の発行をクビを長くして待つようになった。廃車欄を眺めると、2120型や6760型が廃車にされている。8620型にしても38633なぞと書いてあると、38600型と信じ込んで、貴重な機関車だったに相違ないと心を痛めたものであった。機関車の形式が読めるようになったのは高校一年の春、横浜機関区を見学してからである。生まれて初めて見る機関区は、ただただ好奇心が先走って写真にはとてもなっていないが、その中に6783?というロコがいた。これが6760型であることが判って、以来、古典の蒸機に対する興味も湧いて来た。また、臼井茂信氏著「国鉄蒸気機関車小史」を購入して各地にまだ古典蒸機がいることを知り、機関区や鉄道ファンの名所をめぐる撮影旅行の道すがら形式写真を撮りに行ったりもした。知らず知らずに、鉄道写真を撮るようになっていたのであった。

 当時の撮影旅行は機関区で形式写真を撮り、風景のよいところで風景写真を撮るという非常に漫然としたものであった。瀬野-八本松間のD52重連補機を嬉々として撮って仲間に見せても、大方はふーんと言うだけで、彼らの感激を呼ぶことはできなかった。それは私がその情景に感激してシャッターを押したので、できあがった写真を見ると感激がよみがえってくるのであり、あたかも、その写真自体が感激を呼ぶものと錯覚していたからである。

 一方、私はローカル線にもよく行った。それは鉄道になんともいえぬわびしさを感じていたからであった。いま考えれば、ちょっと気恥ずかしいようなものであるが、真剣にわびしさを撮ろうとしていたことも事実である。

瀬野~八本松1 (上)山陽本線の瀬野~八本松間を行く列車。長大な列車が多数運行されていたため、後補機にD52重連がつき、勾配を押し上げた後、補機は走行中に解放されて逆行する方式がとられていた。

Next